とある未成年のアウトプット

説明書は読まない派です。

2分の1成人式と、死生観

やぁ。

 

さて、今回はスピリチュアル系な内容になります。

 

※僕の死生観で話を綴っています。あくまで個人の意見です。他の死生観を否定するわけではなく、「僕はこう思う」ってお話なので、もし肌に合わずに苛ついたりしたら静かに記事を閉じて下さいね。

 

 

僕はスピリチュアルを「そうだといいね」程度にしか信じておりませぬ。

ただ中学2年あたりから高校1年くらいまでの3年間は、進んで勉強していたわけではありませんが、スピリチュアルに精通してる方達のコミュニティに属することが多かったので、色々と知識は蓄えられました。

 

都市伝説や裏話が好きだった頃がありまして(今も好きなんですけど)。

天皇とかね。八咫烏とか。もちろんイルミナティとかNWOとかも。学校から帰るとそんなことばっかり調べてた時期がありました。

 

で、そんな話を集めていると、スピリチュアルと遭遇するんですよ。潜在意識とか、松果体とか、440Hzとか、そんな知識にも触れますからね。

 

都市伝説調べてるとスピリチュアルな知識がつくのは必然かと。

 

今は大体の都市伝説系を否定するスタンスですが、まぁ世界がそんなに全てを晒して廻ってるわけがないので、何か裏があるとは思ってますよ。

 

話が逸れましたね。

閑話休題

 

小さい頃から「死」について考えてました。

子どもの死生観って、「死んだら天国に行く、もしくは地獄に行く」がほとんどだと思うんですよ。中には輪廻転生するって子や幽霊になるとかいう子もいる。

 

まぁ今の子ども達は賢いし、また死生観も変わってきてるかもしれませんね。

 

とりあえず、僕の幼少期の死生観も、例に漏れず「死んだらあの世に行く」だったわけです。

「あの世には神様がいて、この世から見ることはできない」みたいに考えてたわけです。

 

僕は1歳の頃に母親を亡くしています。もちろん記憶はないです。父から「お母さんは死んだんだよ」ってことを聞かなければ、母親が死んだことを知らずにいたでしょう。なんせ物心ついた時にはすでに継母と妹がいましたから。

 

そのニューファミリーライフ。

最初はなんの問題もなく過ごせたのです。

血が繋がっていなくとも、継母は本当の母親のように僕を育ててくれました。

 

しかし後に妹と弟が生まれます。最終的に4人生まれます。

 

するとね、扱いが変わってくるんですよ。

もちろん僕が障害を持っていたからっていうのもあると思うし、

小1の頃から寮生活で家族といる時間も極端に短くなって、その結果コミュニケーション不足になったこともあると思う。

あと僕が言う事聞かない悪ガキだったってこともあるかもです。

 

でも明らかに違うんですよ。妹達の運動会や文化祭は見に行ってビデオまで撮るのに、僕のは見にさえ来ない。

虐待親父からのDVから妹達を必死で守るのに、僕へのDVは傍観するだけ。

 

何度願ったことでしょう。「本当のお母さんが生きてたら」って。

 

その思いはふつふつと胸の奥でくすぶっておりました。

そしてある時、はっきりと自覚するんです。

そう、その時こそが、「2分の1成人式」。

 

 

なんなんですかね、2分の1成人式って。

それが学校の行事であったわけですよ。小4の時です。

んで学部全員の集会で発表するわけですよ。

 

僕はとても困りました。

なぜって?それはね。

みんな「産んでくれてありがとう」って発表するから。

母親のエコー写真から始まる、生後数ヶ月、1歳、2歳、保育園って風な流れで、10歳の自分に至るまでのスライドショーを背景に。

 

僕は「産んでくれてありがとう」と言う相手がいない。ついでに言えば写真も無い。

その時はなんて言っただろう。何にも覚えてないな。多分、育ててくれてありがとうみたいなことだったはず…。

 

そこで思ってしまったんですね。「僕のお母さんに言いたい」って。

 

それからは毎晩考えましたよ。

あの世とは。魂とは。命とは。存在とは。そして、死とは。

 

当時はドラゴンボールが好きでした。

 

なので毎晩祈りました。

ドラゴンボールにはあの世も神様も魂もあるからね。

会わせてくださいと。

 

しかし、この世の理は覆りませんでした。

 

ならばせめて届けと。

記憶の片隅にも残っていない母親を想像し、毎晩問い続けました。

聞こえていますかと。

返事を下さいと。

 

やはり、この世の理は覆りませんでした。

 

 

何度目かの夜を迎えた時に、附に落ちました。

死んだら全てが消えるのだ、と。

何一つ残らない、と。

存在そのものが消滅するのだ、と。

 

あの世の存在を考えるにあたって、まぁ次元が違うとか言われちゃ元も子もないんですが、

まず僕は「いつからあるのか」を疑問に思いました。

 

あの世っていつからあると思う?地球ができた時?人類が生まれた時?じゃあ人類の始まりの境界ってどこ?それとも地球ができる遥か昔から存在していたの?

 

ただそうだとするとおかしいな。

生き物はみんな死ぬから、増えたり減ったりを繰り返すけど、

死んだ物は死んだままだと数が減ることがないから、常に増え続ける。

これまで何兆人の人が死んだのか計り知れないし、他の動物も含めると飽和するんじゃないかと。空間が有限であるなら。

 

死んだ人は違う人の肉体に入って生き返る?じゃあ増え続ける人口をどう説明する?ある区間を切り取って、5人死んでその後6人生まれたら1人はどこからきたの??

 

そんな3次元的な視点であの世を考察するのもおかしい話ですが、当時の僕は本気で考えていました。

 

そうするとね、あの世も存在しないって結論に至ったの。

 

人が世界を認知できるのは脳のおかげ。つまり脳さえ生きていれば身体が無くても世界を認知することはできる。死ぬということは、つまり世界が認知できなくなること。ただの脳の働きの永久停止。

 

そう考えたわけです。

 

意識は脳にこそ宿り、脳が機能しないなら、それは当人にとって死んだことと同義であると。

植物人間を外から見る人はまだその人が生きていると言うだろうけど、当人にとっては死んでいる状態と何ら変わらないと。

 

もっと極端に言えば夢を見ない睡眠も、本人からすれば死んでいる状態と同義だと。

ただ時間が経てば意識が復活し、その感覚器官と脳を使って世界を知ることができるだけだと。

 

そう考えたわけです。

 

その結論に至ったことにより僕は、生きることがどれだけ貴重であるかを思い知らされました。

同時に、必ず終わりを迎える命の儚さと呆気なさ、全力で生きても結局は何も残らない寂しさと虚しさも思い知らされました。

 

一時期それで悩んだこともありましたね。いわゆるニヒリズムに嵌った時です。

全て最後は塵になるのに、全部無駄なのに、なぜここまで頑張らないと、苦しまないといけないのか

みたいなことを考えてたこともありました。

 

amazarashiのおかげでそっから抜け出せて、今はアンチニヒリズムを信条にしてるよ。

 

 

 

よく「人は死んでも誰かが忘れなければその人の心の中で生き続ける」といったセリフを聞きますが、あんなものは詭弁です。

人は忘れます。必ず。都合の良い時だけ思い出して心の拠り所にするだけです。

 

なにより僕の父親がそうだからね。

 

別にいいんですよ。忘れて。わざわざ心の中で生かさなくても。生かしていたいならそれは人の自由ですが、無理に生かす必要はありません。

思い出として胸の中に留めておくのと、心の中で生かすってのは違うと思うよ。

 

「死んだ存在なんか忘れろ」って言ってるわけではないです。ただ、どう願っても帰ってきません。そこは割り切らないと。いつまでも縋るのは、虚空に手を伸ばし続けるようなもんです。

 

だからこそ、生きている時に言いたい事は言っておいた方がいいし、してあげたい事やしたい事はさっさとした方がいい。

時間は有限です。心臓に「もうちょっと止まるの待って」とかお願いできません。

 

永久的な存在が確立されない限り。

いつか必ず終わる摂理の中にいる限り。

大事なのは「今この瞬間」だと僕は思います。

言いたい事は言っといた方がいいです。ホントに。

 

ただね、感謝とか称賛とか、そんな俗に言う「キラキラ言葉」だけじゃなくって、謝罪とか後悔とか、そんなことを言ってもいいと思うよ。

 

墓石にごめんって涙垂らしても本人は許してくれないよ。

ただの自己満で終わるよ。

 

まぁそれでスッキリする人もいるんでしょうけど。

僕は母親の墓前で産んでくれてありがとうって言いましたが、なんとも言えない虚無感しか産んでくれなかったよ。

 

 

話変わるけど生き物は大事にしようね!

といっても業が深い我々人類は、深夜に響き渡るモスキート音にマジ切れしたり、冷蔵庫の下から出てきたゴキブリや畳でくねるムカデを容赦なく制裁するけどね。

 

自分のできる範囲でいいです。そこは。自分に都合よく制限を設けてください。

 

あと屠殺の画像や動画を見ろとは言いませんが、そーゆーことも少しは意識してみるといいですよ。人間であることが苦痛になりますよ。ホントに。残酷の化身ですよ。

 

 

 

…何を言いたいのかわからない記事になりましたね。なんか長いし。ごめん。

今度から自己紹介の時に「特技は脱線です」って言うよ。うん。

 

とりあえず、なんか照れ臭かったり、恥ずかしかったり、または勇気が出なかったり、自分が悪いことを認めたくなかったり、そんなことで言えていない言葉は、さっさと言ってしまいましょう。

 

ではまた。