とある未成年のアウトプット

説明書は読まない派です。

神っていると思う??

やぁ。

 

前回の死生観の記事に続き、まーためんどくさいネタをぶちこみます。

 

僕はそーゆーめんどくさいネタを大真面目に語りたいんですが、というかあわよくば語り合いたいんですが、まぁそんな生産性も正解もない、下手すると人間関係粉砕する話題はみんなしたくないんですかね。

なのでここで吐くわけです。

 

ってなわけで、始まり始まり。

 

 

 

「神っていると思う?」

とか質問すると戦争がおきかねませんが、実際のとこ、どう思います?

 

ヨーロッパやアメリカではキリスト教が蔓延してますし、アフリカや中東はイスラムが、インドではヒンドゥーが、イスラエルではユダヤが…などなど、宗教によって崇める神は違えども、信者である以上みんな「いる」と答えるでしょう。

 

日本にも「神道」というものがあります。神社が関わるやつです。八百万の神々が〜とかいうやつです。

 

でも日本って宗教的なカテゴライズはあんまりないですよね。いい意味で無関心。信じたいなら信じれば?って感じ。

イスラム教には過激派によるテロの影響であまり良い印象を持っていない方が多いですが。

「あいつはキリスト教徒だから」なんてことはあんまりない。「あいつは中国人だから、韓国人だから」の方がよほど多い。

 

さてそんな「信じたい神信じれば良いよ」な国、信仰に寛容な国、日本。この記事を綴っている僕は日本人です。この記事を読んでいる方の多数は日本人でしょう。

さてもう一度聴きます。

 

神っていると思う?

 

そもそもさ、神ってなんだろうね。

創造主?全知全能?そんなイメージがあるけど、神って何??

人間を作ったのが神?破壊の限りを尽くしてその責任をその都度未来に押し付ける肉塊を作ったのが全知全能の神??

 

僕はね、人間とは基本的に全員ゴミであるって思ってる。

 

ちょっと話逸れるけどさ。

今日から三日間の間で、自分ができる「良いこと」をたくさん思い浮かべて、紙に書いて欲しい。

 

そして2ヶ月くらい後に、今度は三日間の間で、自分ができる「悪いこと」をたくさん思い浮かべて書いて欲しい。もちろん、「法律も倫理も存在しない場合」だよ。自分の本性の赴くまま、「人として良くない」とか、「法律違反」とか、そんなリミッターは解除して思い浮かべてみてほしい。

 

絶対後者の方が数が多いから。

絶対。

支配したい。財を奪いたい。殺したい。犯したい。

「思ったことがない」なんて言わせないよ。

絶対にある。しかもそれは無意識に。突発的に。

もし「盗みは自由意思によって行われても何の問題もない」って言われたら、お店の経営なんて考えずにあなたは時計店や宝石店で盗みを働くはずだ。

 

それを抑えるための倫理

それを罰するための法律

それを忘れないための理性

 

僕はそう思っています。

 

だからね、神が創造主だとするのなら、なぜそんな出来損ないを創ったのか理解できないんですよ。

それにね、全知全能ってありえないの。

不可能なの。

 

だから、もし神が、そういった「創造主」や「全知全能」っていった類なら、僕はいないと思ってる。

 

もっとはっきり言うと、人間の妄想でしかないと思っている。

 

しかしね、スピリチュアルの世界はね、よくこの「神」が出てくるんですよ。

 

この前もTwitterで、ユダヤ人もビックリな範囲が狭すぎる選民思想剥き出しの人を見かけましたよ。それがきっかけでこの記事を書くに至ったんですけど。

 

僕の論でいくと、神は人々の妄想に過ぎない。

じゃあなんで「いる」って人と「いない」って人に分かれるのか。

空想家と現実主義者の違い、みたいに簡単な分別なら楽なんですが、どうもそうじゃないみたい。

 

僕が観察してて思ったのは、

「自分は人とは違う、優秀なんだ」っていうナルシシズム傾向が強い人ほど、自分を「選ばれた側」に置いて、神を語る。

「本当に神がいるならこんなに苦しいのはなんで」っていう鬱傾向が強い人ほど、自分を「選ばれなかった側」に置いて、神を否定する。

ってこと。

 

まぁ宗教の神も「私以外の神を信じるな、私だけを信じろ」って言ってますしね。

神を崇める人に「私は神を信じてるけど神からは選ばれてないと思う」みたいな人はいないと思う。

 

よくさ、神頼みとか言うじゃん。相応の努力とかしてれば良いけど、なんもしてねぇのに神に頼む奴いるじゃん。僕あれすっごくおかしくって笑えるんですよ。

だって失敗したら神のせいでしょ?自分のせいなのに。で、成功したら神のおかげじゃなく自分のおかげでしょ?どこまで都合がいいんだと。笑ってしまいますね。

 

 

ここまで「神はいない」ってことを強調して書いてきましたが、別に「神はいると思うよ」って意見もいいと思いますよ。ただ僕は信じません。

もし神がいるとすれば、理不尽に消えていく罪のない命や、罪に罪を重ねたやつがのうのうと生きてたりすることの説明で、神ほど醜悪な存在はいないと証明したい。

 

今回も2千文字超え。ありがとうございました。

そういえば聴き忘れてました。答えは各自考えてください。別に考えなくてもいいです。

 

神っていると思う??

 

ではまた。

2分の1成人式と、死生観

やぁ。

 

さて、今回はスピリチュアル系な内容になります。

 

※僕の死生観で話を綴っています。あくまで個人の意見です。他の死生観を否定するわけではなく、「僕はこう思う」ってお話なので、もし肌に合わずに苛ついたりしたら静かに記事を閉じて下さいね。

 

 

僕はスピリチュアルを「そうだといいね」程度にしか信じておりませぬ。

ただ中学2年あたりから高校1年くらいまでの3年間は、進んで勉強していたわけではありませんが、スピリチュアルに精通してる方達のコミュニティに属することが多かったので、色々と知識は蓄えられました。

 

都市伝説や裏話が好きだった頃がありまして(今も好きなんですけど)。

天皇とかね。八咫烏とか。もちろんイルミナティとかNWOとかも。学校から帰るとそんなことばっかり調べてた時期がありました。

 

で、そんな話を集めていると、スピリチュアルと遭遇するんですよ。潜在意識とか、松果体とか、440Hzとか、そんな知識にも触れますからね。

 

都市伝説調べてるとスピリチュアルな知識がつくのは必然かと。

 

今は大体の都市伝説系を否定するスタンスですが、まぁ世界がそんなに全てを晒して廻ってるわけがないので、何か裏があるとは思ってますよ。

 

話が逸れましたね。

閑話休題

 

小さい頃から「死」について考えてました。

子どもの死生観って、「死んだら天国に行く、もしくは地獄に行く」がほとんどだと思うんですよ。中には輪廻転生するって子や幽霊になるとかいう子もいる。

 

まぁ今の子ども達は賢いし、また死生観も変わってきてるかもしれませんね。

 

とりあえず、僕の幼少期の死生観も、例に漏れず「死んだらあの世に行く」だったわけです。

「あの世には神様がいて、この世から見ることはできない」みたいに考えてたわけです。

 

僕は1歳の頃に母親を亡くしています。もちろん記憶はないです。父から「お母さんは死んだんだよ」ってことを聞かなければ、母親が死んだことを知らずにいたでしょう。なんせ物心ついた時にはすでに継母と妹がいましたから。

 

そのニューファミリーライフ。

最初はなんの問題もなく過ごせたのです。

血が繋がっていなくとも、継母は本当の母親のように僕を育ててくれました。

 

しかし後に妹と弟が生まれます。最終的に4人生まれます。

 

するとね、扱いが変わってくるんですよ。

もちろん僕が障害を持っていたからっていうのもあると思うし、

小1の頃から寮生活で家族といる時間も極端に短くなって、その結果コミュニケーション不足になったこともあると思う。

あと僕が言う事聞かない悪ガキだったってこともあるかもです。

 

でも明らかに違うんですよ。妹達の運動会や文化祭は見に行ってビデオまで撮るのに、僕のは見にさえ来ない。

虐待親父からのDVから妹達を必死で守るのに、僕へのDVは傍観するだけ。

 

何度願ったことでしょう。「本当のお母さんが生きてたら」って。

 

その思いはふつふつと胸の奥でくすぶっておりました。

そしてある時、はっきりと自覚するんです。

そう、その時こそが、「2分の1成人式」。

 

 

なんなんですかね、2分の1成人式って。

それが学校の行事であったわけですよ。小4の時です。

んで学部全員の集会で発表するわけですよ。

 

僕はとても困りました。

なぜって?それはね。

みんな「産んでくれてありがとう」って発表するから。

母親のエコー写真から始まる、生後数ヶ月、1歳、2歳、保育園って風な流れで、10歳の自分に至るまでのスライドショーを背景に。

 

僕は「産んでくれてありがとう」と言う相手がいない。ついでに言えば写真も無い。

その時はなんて言っただろう。何にも覚えてないな。多分、育ててくれてありがとうみたいなことだったはず…。

 

そこで思ってしまったんですね。「僕のお母さんに言いたい」って。

 

それからは毎晩考えましたよ。

あの世とは。魂とは。命とは。存在とは。そして、死とは。

 

当時はドラゴンボールが好きでした。

 

なので毎晩祈りました。

ドラゴンボールにはあの世も神様も魂もあるからね。

会わせてくださいと。

 

しかし、この世の理は覆りませんでした。

 

ならばせめて届けと。

記憶の片隅にも残っていない母親を想像し、毎晩問い続けました。

聞こえていますかと。

返事を下さいと。

 

やはり、この世の理は覆りませんでした。

 

 

何度目かの夜を迎えた時に、附に落ちました。

死んだら全てが消えるのだ、と。

何一つ残らない、と。

存在そのものが消滅するのだ、と。

 

あの世の存在を考えるにあたって、まぁ次元が違うとか言われちゃ元も子もないんですが、

まず僕は「いつからあるのか」を疑問に思いました。

 

あの世っていつからあると思う?地球ができた時?人類が生まれた時?じゃあ人類の始まりの境界ってどこ?それとも地球ができる遥か昔から存在していたの?

 

ただそうだとするとおかしいな。

生き物はみんな死ぬから、増えたり減ったりを繰り返すけど、

死んだ物は死んだままだと数が減ることがないから、常に増え続ける。

これまで何兆人の人が死んだのか計り知れないし、他の動物も含めると飽和するんじゃないかと。空間が有限であるなら。

 

死んだ人は違う人の肉体に入って生き返る?じゃあ増え続ける人口をどう説明する?ある区間を切り取って、5人死んでその後6人生まれたら1人はどこからきたの??

 

そんな3次元的な視点であの世を考察するのもおかしい話ですが、当時の僕は本気で考えていました。

 

そうするとね、あの世も存在しないって結論に至ったの。

 

人が世界を認知できるのは脳のおかげ。つまり脳さえ生きていれば身体が無くても世界を認知することはできる。死ぬということは、つまり世界が認知できなくなること。ただの脳の働きの永久停止。

 

そう考えたわけです。

 

意識は脳にこそ宿り、脳が機能しないなら、それは当人にとって死んだことと同義であると。

植物人間を外から見る人はまだその人が生きていると言うだろうけど、当人にとっては死んでいる状態と何ら変わらないと。

 

もっと極端に言えば夢を見ない睡眠も、本人からすれば死んでいる状態と同義だと。

ただ時間が経てば意識が復活し、その感覚器官と脳を使って世界を知ることができるだけだと。

 

そう考えたわけです。

 

その結論に至ったことにより僕は、生きることがどれだけ貴重であるかを思い知らされました。

同時に、必ず終わりを迎える命の儚さと呆気なさ、全力で生きても結局は何も残らない寂しさと虚しさも思い知らされました。

 

一時期それで悩んだこともありましたね。いわゆるニヒリズムに嵌った時です。

全て最後は塵になるのに、全部無駄なのに、なぜここまで頑張らないと、苦しまないといけないのか

みたいなことを考えてたこともありました。

 

amazarashiのおかげでそっから抜け出せて、今はアンチニヒリズムを信条にしてるよ。

 

 

 

よく「人は死んでも誰かが忘れなければその人の心の中で生き続ける」といったセリフを聞きますが、あんなものは詭弁です。

人は忘れます。必ず。都合の良い時だけ思い出して心の拠り所にするだけです。

 

なにより僕の父親がそうだからね。

 

別にいいんですよ。忘れて。わざわざ心の中で生かさなくても。生かしていたいならそれは人の自由ですが、無理に生かす必要はありません。

思い出として胸の中に留めておくのと、心の中で生かすってのは違うと思うよ。

 

「死んだ存在なんか忘れろ」って言ってるわけではないです。ただ、どう願っても帰ってきません。そこは割り切らないと。いつまでも縋るのは、虚空に手を伸ばし続けるようなもんです。

 

だからこそ、生きている時に言いたい事は言っておいた方がいいし、してあげたい事やしたい事はさっさとした方がいい。

時間は有限です。心臓に「もうちょっと止まるの待って」とかお願いできません。

 

永久的な存在が確立されない限り。

いつか必ず終わる摂理の中にいる限り。

大事なのは「今この瞬間」だと僕は思います。

言いたい事は言っといた方がいいです。ホントに。

 

ただね、感謝とか称賛とか、そんな俗に言う「キラキラ言葉」だけじゃなくって、謝罪とか後悔とか、そんなことを言ってもいいと思うよ。

 

墓石にごめんって涙垂らしても本人は許してくれないよ。

ただの自己満で終わるよ。

 

まぁそれでスッキリする人もいるんでしょうけど。

僕は母親の墓前で産んでくれてありがとうって言いましたが、なんとも言えない虚無感しか産んでくれなかったよ。

 

 

話変わるけど生き物は大事にしようね!

といっても業が深い我々人類は、深夜に響き渡るモスキート音にマジ切れしたり、冷蔵庫の下から出てきたゴキブリや畳でくねるムカデを容赦なく制裁するけどね。

 

自分のできる範囲でいいです。そこは。自分に都合よく制限を設けてください。

 

あと屠殺の画像や動画を見ろとは言いませんが、そーゆーことも少しは意識してみるといいですよ。人間であることが苦痛になりますよ。ホントに。残酷の化身ですよ。

 

 

 

…何を言いたいのかわからない記事になりましたね。なんか長いし。ごめん。

今度から自己紹介の時に「特技は脱線です」って言うよ。うん。

 

とりあえず、なんか照れ臭かったり、恥ずかしかったり、または勇気が出なかったり、自分が悪いことを認めたくなかったり、そんなことで言えていない言葉は、さっさと言ってしまいましょう。

 

ではまた。

 

脊損のアレコレ

やぁ。

 

最初の方の記事で説明しかけていた「脊損の色々不便なこと」のネタをここで終わらせます。まだ読んでない人も別に前の記事は読まなくてもいいよ。大したことは書いてない。うん。

 

※後半汚い話が出てくるので、食事中の方はご遠慮ください。気にしないのなら自己責任でどうぞ。

 

まず脊損ってなに?って話なんだけど、「脊髄損傷」の略です。

じゃあ脊髄損傷ってなに?って話なんだけど、脊髄神経が遮断されて起こる麻痺障害のことです。

 

障害の特性としてはとっても簡単。麻痺。つまり感覚がない。それだけです。

原因不明のものでもないし、難病でもない。

 

単純に不便!

うまく動かせないとか、そーゆーものではなく、完全に感覚がないだけなんだけど。

まぁこれが色々と弊害を生むんですよ。

 

歩けないから車椅子って話は前した気がするけど、それだけじゃないんですよね。

 

さぁ想像の時間です。

あなたには、脇の付け根から下の感覚が一切ありません。

 

熱湯が足に溢れました。

熱くありません。

車椅子のタイヤに足を引っ掛けて砂利道を引き摺りました。

痛くありません。

なんか体調がよろしくない

でもお腹は痛くありません。

 

…わかりますか?「感覚が無い」という危険性が。

熱くない。痛くない。それはとても怖いこと。

火傷したかもわからない。皮が剥け血だらけになっていることも、骨が折れていることも、腹に異常があることも「わからない」。

 

とーっても危ない。

 

あとこんなものもあります。

 

車椅子に座って移動するのが基本です。立てない、歩けない場合は、車椅子に乗ってしか移動することができません。家の中では車椅子を降りて這いずって移動することもできますが、常に座位です。

 

常に座っています。

 

みんなは、長時間、お尻を浮かさず、重心を変えず、そのままずーっと座り続けられますか?

 

それが僕は可能なんです。

なぜなら感覚が無いから。

 

そうして常に同じ箇所に圧力がかかった状態を維持していると、圧迫されているところの血行が悪くなります。そして細胞が死にます。大きく腫れ、皮が剥け、肉が溶けます。

 

この状態を「褥瘡」(ジョクソウ)といいます。ようは床ずれです。

 

この褥瘡、放っておくと死にます。

僕は死にかけました。皮下脂肪が溶け出したあたりで菌が入ると、一気に悪化します。

ガス壊疽を引き起こし、敗血症を患い、死にます。

 

3年前、ガス壊疽で敗血症になりかけていたタイミングで病院に行き、その日に緊急手術、緊急入院。退院まで2ヶ月かかりました。

 

怖いですね。もう2度と褥瘡なんて作らねぇ!と誓いましたよ。でもその後も軽度な褥瘡は何度もできています。

それくらい、感覚が無いってことは危険なのです。

 

あと、人間の尊厳をぶち壊す不便さもあります。

 

何度も言います。アレルギー起こすくらい言います。感覚が無いのです。

 

そう、尿意、便意も無いのです。

 

基本垂れ流しですよ。人によりますが。僕の場合は時間調整と長年の勘で管理してますが。

導尿と摘便ってものがありましてね。

 

あれです。管通すやつです。女性の話は聞いたことないですが、男性にすると「あのめっちゃ痛いやつか」と言われるあれです。尿道に管を通して、膀胱圧迫して強制放尿です。

 

それでも出し切れなかったら漏れるし、出るもんは出ます。生理現象なので仕方ないです。

そのためパッドしてる方がほとんどです。

したがって尿路感染とかにもなりやすい。

 

さて次は大の話です。

自立してる脊損の方のほとんどは、排便の場合浣腸を使ってるらしいですが、僕の場合は摘便です。読んで字の如くです。

 

さってと、とりあえず脊損共通の悩みは一通り書いたんですけど、こっから先は個人的なものです。人によってはめっちゃ共感するかもしれないし、この話そのものが苦手って方もいらっしゃるかもしれないな。

 

性的な話です。苦手な方は目を瞑って、勢いよく1回ほど下にスクロールしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぶっちゃけね。僕は男性です。んで19歳。性欲旺盛な猿ですよ。全ての若い男がそうとは言いませんが。

感覚が無いってもちろん「それ」も含めてです。

勃起とか射精のメカニズムって知ってます?

性的興奮によるその2つは、脊髄断絶してたらまず無理です。

僕の場合、反射的に勃たせたり出したりはできるんですけど、あくまで反射なので。

理解のある人じゃ無いと、夜伽の雰囲気ぶち壊します。興奮はするよ?そーゆー行為したいよ?でも身体が反応してくれないの!脳からの伝達が途中で断絶されるから!

てなわけでね。この記事の読者に脊損の男性がいらっしゃいましたら、オベリスクでのプレイは諦めてください。はっきり言います。神経がつながらない限り、「イク」ことはできません。

まぁ夜伽の意味はそれだけじゃ無いからね。自分なりに満足する方法を探していってくださいな。

パートナーの理解が重要です。逆に言えばそれすら理解できないパートナーなど捨てた方がいいです。

結構あっさり書きましたが、これでもかなり葛藤してます。だって欲は湧くもん。悔しいし虚しいけど、背負うことが強制されているので。

頑張って他のことで紛らしたりしてください。

あ、それとね、別にオベリスクが機能しなくても女性を満足させることはできるよ。その辺は頑張って勉強してね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…さっ。終わりです。身体的な不便さは一通り書きました。社会的な不便さはまだ書いてないですが、その内訳としては車椅子乗っててできないことがほとんどです。

エレベーターないと動けないとか。

無人駅で電車に乗れないとか。

狭い通路は入れないとか。

そんな感じ。あ、あと求人数が少ない。それくらいですかね。

 

というわけで、いつぞやの約束は果たしました。また次回からめんどくさいネタのアウトプットだったり、一時の興奮に身を任せたくだらない記事を更新していきます。

 

あと、身近に脊損なりたての方がいらっしゃったら、参考としてこの記事を紹介してくれると嬉しいです。結構大事な話もしてるんで。

 

ではまた。

死にたい人の隣にいる人へ思いを馳せて。

やぁ。

 

死にたい人ではなく、

死にたい人の隣にいる人へ思いを馳せて。

寄り添おうとして、うまくいかなくて、苦しんでる人へ。

 

 

 

「死にたい」の4文字に圧縮された、数百ページにも及ぶ大辞典にさえ収まりきれない曖昧で混沌とした感情を人が汲み取ることを、善意とか心配とか愛情なんて空疎な言葉で、片付けちゃいけないと思うんだ。

 

「4文字に略されてもわからない。
ちゃんと言葉にしないと伝わらない。」

 

って意見ももちろん正解で、正論で。

 

でも、死が救済に思えるほど生きることに絶望しているのなら、言葉の整理なんてできないと思う。
整理どころか、言葉そのものすら出てこないと思う。
やっと吐き出せる言葉が「死にたい」って4文字で、それで精一杯。

 

死にたい理由は人それぞれあるし、それらを聞き手が全部理解するなんて不可能だよ。

 

4文字に全てを詰め込むから、その人の性格や環境、価値観とかを理解してないと、その4文字の背景を見るのも難しい。

 

 

Twitter見てると、直接的にも関節的にも、「死にたい」って呟いてるアカウントって探せばいくらでも出てくる。それに対するリプライの悪い例を2つ挙げてみた。

 

一つは、何に苦しんでいるのか、何に傷付いているのか、何を背負い、何で縛られているのかを知らない人の
「とにかく(とりあえず)私はあなたに生きていて欲しい」
系のリプライ。

 

生きることは楽しいこと、幸せなことってステレオタイプから抜け出せない人達の言葉。
「死んだら何もかも無くなる」の言葉も
「生きていればどうにかなる」の言葉も
希死念慮の前では風の前の塵と同じなのに。

 

もう一つは、「生きていて欲しい」って言葉があまり意味を為さないことを知っているが故の無関心からくる「そんなに死にたいなら死ねば」系のリプライ。

 

確かにその4文字だけを理解するだけなら「じゃあ死ねば?」で終わる。
「どうぞご自由に」で終わる。
ただ、その発言を伝えるのはあまりにも優しくない。

 

そう思うのもわかるけど、その「どうぞ」って言葉は結構鋭くて。

弱っている心はほんの少しの刺激ですぐに崩れてしまう。「今私は死にたいくらい苦しいよ」って自己顕示に対して、無関心な言葉は心を深く抉ってしまう。

 

僕は両方の思考を持っていた人。

かつて僕の隣にも、死にたい人がいた。

 

その人に対して、最初は前者の「死なないで」主張で寄り添おうとした。

愛情不足が原因だと勝手に決め付けて、愛を与える存在になることで原因を解消し、希死念慮を薄めようと企てた。

 

でもダメだった。

「生きていて欲しい」って言葉は、当人にとって、他人のわがままでしかなかったから。

 

僕はここで諦めた。

それまで思考して、葛藤して、勉強してきた時間が無駄になったと思った。

 

そこから後者の「どうぞご自由に」の思考になった。

伝えなかったけど、死にたいと聞こえる度に「どうぞ」と思っていた。

 

今その人は隣にいない。多分どっかで生きてるだろうけど。

 

 

寄り添うって難しいね。

本気で数年寄り添おうと努力しても寄り添えなかったもん。まぁ僕の意思とか覚悟が弱かっただけかもしれないけど。

 

でも精神科もカウンセラーも自殺防止なんたらセンターみたいなとこも、そんでSNS上の「死にたい人が第三者にいる立場の人達」も、みんな「寄り添いが大事」って言うよね。

 

「相手のことをちゃんと理解してれば」

とか。

「深い愛情を持って、否定しないで」

とか。

「相手の立場に身を置いて」

とか。

 

よくそんな簡単に言うよなって思ってしまったんだ。

理解があれば、愛があれば、仲間がいれば、希望があれば…。

そんな簡単な話じゃないよ。すっごく難しいよ。

相手のことを100%理解はできないし、そもそもこっちも人間だから、何もかも完璧な対応なんてできない。

なのに、些細な言葉が地雷になるよ、なんて脅されたりして。

 

僕は離れたけど、色んな理由で離れられない人もいると思う。

最初は穏やかに優しく接することができても、続いていくうちに全てがストレスになる。

最悪、ミイラ取りがミイラになる。

 

寄り添うって本当に難しい。

ましてや死にたい人に寄り添うのって、失敗が許されない。

 

だから、死にたい人に寄り添う人を、

「優しい」とか「愛がある」とか「善人」とか、

「心が広い」とか「我慢強い」とか「偉い」とか

そんな簡単な言葉で終わらせないで欲しい。

 

彼らは、彼女らは、悩み続けながら、死なせないために必死で頑張ってる。

少なくとも僕は。今頑張っている人達の努力や苦労を全て理解できるわけじゃないけど、ちょっとだけなら理解できるから。

すごく難しくて、時には自分が死にたくなるくらい大変だってことを知ってるから。

 

だからなんだって話なんだけどね。

だから頑張れってことでもないし、

だからもう頑張らなくていいよってことでもない。

 

けど頑張ってるのは知ってるよ。

「優しいね」とか「頑張ってるね」とかの言葉に込められている以上の頑張りは、知ってるよ。

 

それだけです。

 

ではまた。

適材適所

やぁ。

なぜ急にこんな考えが降りてきたのかわからないんですが、ちょっとアウトプットした方がいいかなって思ったんで。綴ります。よろしく。

 

こんな言葉、皆さん聞いたことあると思います。

「君は優秀な社員だから、きっといい社長になれるよ!」

 

…??????

…なんで「優秀な平社員は優秀な社長になり得る」んだろう。

 

は?当然でしょ、優秀な人材なんだからそりゃ社長にもなれるよ。…なんて反論を想像してますが、ちょっと僕の考えを聞いて下さい。

 

まず「優秀」って言葉の範囲が広いように感じる。

 

与えられた仕事をこなす速度が速いから優秀?

自分で考えて行動できるから優秀?

確実に結果を残すから?

毎日怠けず全力で一生懸命取り組んでるから?

あるいはそれら全てを兼ね備えているから?

 

僕はこう思うんです。「平社員として優秀」ってことは、「平社員という立場で、平社員相応の責任を負い、平社員の人間関係の中で、平社員の給料で、平社員の仕事をして、優秀である」ってことだと。

 

つまり、平社員として優秀な人っていうのは、「平社員」という属性であれば力を発揮できる人間ってことだと。

 

さて、質問に戻ります。

どうして優秀な平社員は優秀な社長になり得るの?

 

平社員と社長、もちろん違います。共通点はどちらも人間であること、同じ会社に勤めていることの2つです。

 

平社員のする仕事を、社長はしません。それぞれ役割があるからです。社長は平社員ができないことをやります。

仕事内容の違い。

 

平社員の人間関係と社長の人間関係は違います。それは全人類違うでしょって聞こえてきそうだけど、そーゆーことじゃなくって。

例えば、平社員のコミュニティとして、周りにいる人間は同じ平社員が大半でしょう。部長や課長もいるかもしれませんが、平社員のコミュニティで社長や株主がわんさかいることは滅多にないと思います。超激レアケースです。

 

一方社長のコミュニティはどうでしょう。もちろん平社員達とも交流はあるでしょうけど、会社の長ですよ。そりゃ他の会社の社長や株主、企業のオーナーなどとも交流があると思うんです。人によっては政治家や銀行員、弁護士とかも交流ありそうですよね。

 

人は、周りにいる人間から色んなことを学びます。

アニオタコミュニティに属すればアニメが詳しくなるように。

愛読家コミュニティに属すれば沢山の本に詳しくなるように。

人の知識や価値観、経験や環境は周りの人間で決まります。

 

そこにも社長と平社員の違いがあると考えているんです。

人間関係の違い。

 

給料も当然違います。これは仕方ないです。資本主義とはそーゆー仕組みです。

使える金額が違えば、当然培われる教養も、趣味の範囲も変わってきます。

 

ある程度自由に使えるお金があれば、興味のあることを学ぶ資金に使えます。

海外旅行の余裕があれば、自分の視野を広げることができます。

またファイナンシャルリテラシー(お金に対する意識)を身に付ければ、株や不動産に投資することもできます。

自分の私生活や居住地をより充実させることができるわけです。そう、金があれば。

収入の違い。

 

そして責任の重さ。平社員は雇われている身です。そのため勤め先に貢献できれば上出来なわけです。一方社長は雇う身です。採用した従業員のそれぞれの生活、家族、そして自社の経営。唯一の最終決定権を握る身。その社長の立場と平社員の立場、責任は、天と地ほどの差があるように感じます。

責任の違い。

 

 

これほどまでに違うんです。今羅列したこと以外にも沢山あるんでしょう。

単なる上下関係、カーストの頂点と底辺って認識が浸透してますが、そもそも属性が違うのです。

 

そういえば昨日お好み焼きが食べたかったので、お好み焼きで例えます。

鉄板でお好み焼きを作る人、この人が社長です。

その材料を作る人。キャベツ係。卵係。豚肉係。小麦粉係。色々な係があります。それぞれが平社員です。

社長はお好み焼きをうまく作れますが、キャベツを育てられません。すぐ虫に喰われます。

キャベツ係の平社員は良質なキャベツを量産することができますが、包丁を持てません。すぐ指切ります。

 

なんかわかりにくいな。伝わって。

 

つまり、いくら「平社員として優秀」だからといって「優秀な社長」になれるかどうかはわからないんです。

わからないのにさも方程式の如く

「優秀な平社員=将来の優秀な社長」

みたいになってるのはなんなんだろうって。

 

出世の仕組みを否定するわけじゃないんです。

ただ、種類が、属性が違うのに、「優秀」なんて広い範囲な言葉で括ってしまうのは、おかしいんじゃないの?って話です。

 

めっちゃパソコンできるから頑張ってたら認められて上層部になったけど、途端にパソコン作業激減して代わりに人付き合い多くなったコミュ障

とかいそうじゃないですか。

 

人の上に立ったり、大きな組織のリーダーとして仕切ったりすることは立派です。

ですが、「1番秀でている能力を最大限に発揮できる属性に人を割り振る」方が、それぞれの負担やストレスも減るだろうし、総合力としてもそっちの方が強くなると思うわけです。

そしてその割り振りの能力が長けている人を、トップに置くべきなんじゃないかなぁ。

 

 

…長いね。長くなったね。申し訳ない。ここまで読んでくれてありがとう。

また何か降りてきたら綴ります。

今日のテーマは「適材適所」ってことで。

 

ではまた。

路線変更

やぁ。

 

日記とは。毎日の出来事を自分の言葉で記録することであります。

広辞苑には「日々の出来事や感想などの記録。」と記載されております。

 

さて、このブログの説明欄にはこう書かれています。

 

「自己紹介とか日記とか」

 

・・・正直に申し上げます。毎日はきついです。というかめんどくさいです。はい。

この弁解がなくとも、前回更新したのが5日前なので、まぁ、そーゆーことです。

 

僕は言いました。「人に見せるためのブログではない」と。

 

これも正確には違います。ブログの時点で人に見せるためのものです。ただ、人に伝わるような文章を綴るのがめんどくさかっただけです。じゃあブログ書くなよって話なんですが、そういうわけにもいきません。自己顕示欲が湯水のごとく湧き出でるからです。

 

さーてどうしたものか。せっかくブログを書いているのだから、どうせならTwitterではできないことをしたほうがいいと思うんです。

 

僕は時々、週2のペースくらいで長文考察整理ツイートみたいなものを投下しています。おそらく誰も最後まで読んでいない、見るからにめんどくさそうなツイートの連投をします。テーマは様々で、何がきっかけになるかわかりません。

 

ある時は人権、ある時は政治、ジェンダー、宗教、己とは、精神のあり方、人間とは。

 

面白くないネタばかりです。ですが僕にとってはとても楽しいんですね。なんででしょう。この脳みその使い方の偏りがもうちっとマシならモテるかなぁ。

 

そんで大体「暗い」です。性悪説推しているので。人はみんな醜い肉塊だと。

 

てなわけでですね、これからは日記やめます。Twitterで表現しきれないくらいアウトプットしたいことが、頭蓋骨から飽和したときにここに雪崩れさせます。

 

さぁますます読もうと思えない方向性に走りますね。まぁいっか。読んでくれる人ありがとう!

 

そういえば前の記事で「障害による不便なことの続き書くよ」とか言ってましたね。

 

・・・気になります?正直どうでもよくない?・・・書かなきゃダメ?

 

気が向いたら書きます。そーゆータイトルで。これからは日付をタイトルにしません。

 

あと今更なんだけど、結構忙しかったんですよ。まじで。エウレカセブンってアニメの主人公の愚痴を垂れ流してた時くらいなんだよ。暇だった時。

 

このブログ続けばいいなぁ。1万記事とかいったらいいなぁ。がんばれ未来の僕。

 

そんなわけで、今回はブログの形態変えるって話でした。変えるって言ってもこれまで4記事しか書いてないけど。

 

ではまた。

2020.8.31

やぁ。

 

昨日「重たい話の続き書くよ」とか言いましたが、今日は朝からめっちゃ体力使って疲労が溜まっているため、頭を使って文章を綴る余裕がありません。

 

てことで、昨日の話の続きは明日の僕に投げます。えーい!

 

今日はね、とっても嬉しいことがあったから、脳みそ使わずにそれだけをここに書いて終わります。

 

東方ロストワードというスマホのアプリゲームをご存知でしょうか?

かつて「東方プロジェクト」という弾幕シューティングゲームがネット界隈で盛大に流行り、その2次創作やキャラクターの作り込み、ゲームBGMのレベルが高いことから人気になりました。

 

そしてその「東方プロジェクト」がついにスマホのアプリでリリースされたのが、今年の春。

もちろんインストールしていますとも。えぇ。

 

さぁて、東方プロジェクトのキャラクターってめっちゃ沢山いるんですね。

その中で「古明地こいし」というキャラが僕のダントツの推しなんです!

 

 

そう!そのこいし様が!とうとう実装されて!期間限定ガチャで登場したんですね!!!

これはもう迎え入れるしかないと!6月から貯めたガチャ石、およそ250連分を全て使う勢いで回しました!

 

そして80連目、とうとう出たのです!!!我が愛しのこいし様がっ!!!!!僥倖!!!!!!

 

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せっかくなので載せます!どう?可愛いでしょ?可愛いんだよ!すごく可愛いんだよ!!

 

はい、以上です。こいし様が当たったことによるテンションの暴騰で残りHPが全て消滅いたしました。寝ます。

明日また体力があれば、昨日の重たい話の続き書きますね。今日はごめんない。これで勘弁して。

 

ではまた。